放光寺
Mar. 3 '21
 放光寺は山梨県甲州市の塩山藤木にあり、花の寺として名を知られています。今日は山梨県の梅の花めぐりの一つとして、放光寺を訪ねたのですが梅は驚くほどの見栄えはありませんでした。なお、放光寺の近くには有名な恵林寺があり、桜めぐりなどでこの付近を何度か訪れています。そして、この放光寺は天正10年(1582年)3月の織田・徳川連合軍の武田領侵攻により武田氏は滅亡しましたが、この時に放光寺本堂も焼失したという。

放光寺・山門

山門から仁王門方向を見る

仁王門

左右の金剛力士像
 

中門(?)と奥に本堂

放光寺・本堂

愛染堂                      鐘楼
 

         大黒天堂            鶏冠観世音菩薩・・・黒川金山慰霊碑とある
 

阿字門と白梅


栗原氏由来の寺院

 自分のルーツを求めて・・という大げさなものではないが、私の家には父が作った家系図が残っています。その家系図がどれほどの正確さがあるかは知りませんが、そのルーツは山梨県(甲斐の国)にあるという。山梨市には上栗原や下栗原という地名も確かにあり、その周辺には栗原に由来するお寺も沢山あるようです。そこで、折角こちらに来たので、その由来を訪ねて何カ所かの寺院を駆け足で回ってみました。


 「栗原氏(くりはらし)は、日本の氏族。室町・戦国時代の甲斐国の国衆で、武田氏の支族。 諸系図に拠れば、栗原氏は甲斐守護・武田信成の子である武続(十郎、重郎)を祖とし、東郡栗原郷(現在の山梨市下栗原)に拠り栗原氏を称したという。栗原郷の一帯には栗原氏の菩提寺が分布しており、上栗原には海島寺、中栗原には養安寺、下栗原には大翁寺が所在している。特に養安寺と大翁寺は栗原氏の館跡に創建された寺院であるという。室町時代には嘉吉元年(1441年)9月の嘉吉の乱に際して栗原信通が西郡の国人・大井氏とともに甲斐守護・武田信重に随行して上京している。また、武田氏と守護代・跡部氏の抗争では跡部氏に通じていたと考えられている。また、『一蓮寺過去帳』には栗原氏の一族37名の名前が入帳されている。 戦国時代には甲斐国の有力国人として武田氏の甲斐統一に抵抗し、武田信昌の子息である守護・信縄と油川信恵の対立においては「栗原大輔」が信恵方に加担しており、これは栗原信遠に比定される。信縄・信恵の対立は明応7年(1498年)に信縄方優位のもと和睦が成立するが、明応10年(1501年)2月27日には栗原氏の一族が粛清され、『高白斎記』に拠れば同日に信縄方の「栗原式部大輔」(信友、栗原伊豆守か)が家督を相続したと考えられている。戦国期には武田氏の譜代家老として栗原伊豆守の活動が見られる。系図類によれば、同じ伊豆守を称する栗原信友の子息・信重にあたると考えられている。『甲陽軍鑑』に登場する「栗原左兵衛」とする説もある。伊豆守の初見は永禄11年(1568年)3月で、伊豆守は武田勝頼に今川義元の生母である寿桂尼の死去を伝え、勝頼が出陣中の信玄にこれを伝えている。さらに同年8月に伊豆守は武田氏の駿河侵攻に際していずれかの城の普請を命じられている 。」
 (ウイキペディアより)

養安寺・・・栗原院とある

鐘楼

養安寺・本堂

本堂前の石像
 

大法寺・・・栗原郷の一帯にある栗原氏菩提寺の一つ

海島寺・・・栗原郷の一帯にある栗原氏菩提寺の一つ
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